福岡高等裁判所 昭和34年(う)1460号 判決 1960年8月16日
被告人 柳梅雄
主文
原判決を破棄する。
本件を原裁判所に差し戻す。
理由
本件控訴の趣意は、検察官検事寺下勝丸の提出にかかる原審検察官検事堀田春蔵作成名義の控訴趣意書記載(但し、五枚目裏二行目の「不法な住居侵入ではあるけれども」の部分削除)のとおりであつて、これに対する当裁判所の判断は次に示すとおりである。
記録によると、本件公訴事実は、「被告人は昭和三四年二月一七日頃から佐々木常雄の妻秀子(三二歳)と情交関係を結び、同年六月三〇日より福岡県嘉穂郡幸袋町中二三四番地の被告人自宅に同棲していたが、同年七月二日午後一一時半頃前記佐々木常雄が右被告人方に来り、就寝中の秀子を呼び起して家に帰れ、帰らんと殺すぞと怒鳴りつけたので、被告人は右佐々木に対し、立派に話をつけていながらまたこんなことを繰り返えすかと詰問したところ、殴りかかつてきたので、これを蹴倒し、更に同人が肉切庖丁を以て突き掛つてきたので、ここに殺意を生じ、格闘して右の肉切庖丁を奪い取り、これを以て同人の右頸部附近を突き刺し、因つて右鎖骨上窩刺創に基ずく失血により即死せしめたものである」との刑法第一九九条に該当する殺人罪の事実であるのに対し、原判決は、右公訴事実中、被告人が前記日時場所において、佐々木常雄から奪い取つた肉切庖丁で、殺意を以て同人の右頸部附近を突き刺し、因つて同人に対し右鎖骨下静脈を切断した右鎖骨上窩刺創を負わせ、同人をして間もなく同所において、該刺創による失血のため死亡するに至らしめた事実は、これを認めることができるが、証拠によつて認定できる事実、すなわち、被告人は胸を患い療養所に入院中、同療養所に入院中の佐々木常雄の妻秀子と知り合つてついに昭和三四年二月一七日頃同女と情交関係を結び、翌一八日頃から右秀子を伴つて大阪方面へ出奔し、同女と同棲生活を送つていたが、同年四月二七日頃妻ハルが迎えに来たため、肩書自宅へ戻り、秀子を被告人の親戚に当る馬場久男方に預けたこと、しかし、間もなく常雄が秀子を捜して馬場方に現われたので、秀子は被告人方に逃れ、しばらく被告人の家族と同居していたが、その間再三常雄が被告人方を訪れ、秀子に対し家に帰るよう迫り、果ては菜切庖丁を持つて暴れるような行動に出たため、被告人は再度秀子を前記馬場久男方に預けた上、常雄と交渉し、同年六月二七日頃馬場久男等の仲介により被告人から常雄に対し、秀子の手切金として、金三千円を交付し、常雄は今後秀子のことについては、一切異議を言わないということで、常雄と秀子の婚姻関係を解消する話合いが成立したが、常雄はその後もなお、執拗に秀子につきまとつたため、秀子は同月三〇日被告人方に逃れ、再び被告人等と同居するに至つたこと、ところが、常雄は同年七月二日夜一一時過ぎ頃、肉切庖丁を準備して被告人方を訪れ、表戸を開けて無断で同家土間に入り、三畳の間には、蚊帳をつつて、被告人夫婦、被告人の子供四人及び秀子の七名が就寝していたのに、蚊帳をはぐつて就寝中の秀子に対し、豆炭様のものを投げつけたため、秀子はこれに驚いて目を覚まし、土間を見たところ、常雄が立つているのを認め、助を求めるべく被告人と被告人の妻ハルを起し、被告人の背後に隠れたところ、常雄は秀子に対し「秀子、お前は四人の親だろうが、帰らんか」といい、さらに被告人に対し「帰らんと柳、お前を殺すぞ」と怒鳴つて、三畳の間の敷居に上り込み、矢庭に手拳を以て、被告人に殴りかかつたので、被告人がこれを足蹴にしたところ、常雄は土間に転落したが、すぐ起き上り、再び三畳の間に上つて被告人の前に中腰となり、ズボンのポケツトから前記肉切庖丁を取り出し、これを右手に持つて矢庭に被告人の腹部を目掛けて突き出したところ、被告人が突嗟にこれを避け、左手で常雄の右手を掴まえ、庖丁を取り上げようとしたが、その際常雄が被告人の左腕に咬みついたため、被告人は夢中で、常雄から庖丁をもぎ取り即座にその庖丁で常雄の頸部附近を突き刺したところ、同人は土間に転落し間もなく死亡するに至つたとの事実関係に基ずき、被告人の判示加害行為を検討すると、結局常雄は不法に被告人の住居に侵入したものとみるべきであり、一方被告人は就寝中、常雄の予期しない侵入によつて起され、引き続き常雄から矢継ぎばやに攻撃を受け、自己の生命身体が危険に曝されていたばかりでなく、当時被告人居室には、被告人の妻の外、幼い四人の子供と秀子とが居り、これ等の者を放置して自己の安全を図ることもできない状況にあつたため、著るしい興奮、狼狽の状態にあつたもので、被告人が常雄から肉切庖丁を奪い取つた段階においては、客観的には少くとも、被告人等の生命に対する現在の危険は一応消滅したものとみるべきであるが、被告人は当時右のとおり著るしい興奮、狼狽の状態にあつたがため、自己を抑制することができず、常雄から庖丁を奪い取るや否や、常雄に対し、加害行為に及んだことが窺われるので、被告人の判示所為は盗犯等の防止及び処分に関する法律第一条第二項、第一項第三号に該当し、罪とならないものというべきであるとして、被告人に対し、無罪の言渡をしていることが明らかである。
そこで、所論に鑑み、被告人の本件所為が原判決の言うように果して盗犯等の防止及び処分に関する法律(以下たんに盗犯防止法と略称する)第一条第二項、第一項第三号に該当するものであるかどうかを検討するのに、被告人の司法警察員、検察官に対する各供述調書、佐々木秀子、柳ハルの検察官に対する各供述調書、原審における受命裁判官の証人柳公恵、同佐々木秀子、同柳ハル、同馬場久男、同橋上長年に対する各尋問調書、医師古野隆一作成の死亡診断書、押収にかかる肉切庖丁一本の存在及び当審における受命裁判官の証人佐々木秀子、同柳ハル、同馬場久男に対する各尋問調書竝びに検証調書、被告人の当公廷における供述を綜合すると、(一)被告人が入院中、佐々木常雄の妻秀子と知り合つて昭和三四年二月一八日頃同女を伴つて大阪方面に出奔し、同棲生活を送つているうち、妻ハルに迎えられて同年四月二七日頃自宅に帰えり、秀子を親戚に当る馬場久男方に再度に亘つて預け、その間、常雄との間に秀子の身の振り方について交渉し、同年六月二七日頃馬場久男等の仲介によつて被告人から常雄に三千円を交付し、常雄と秀子との婚姻関係を解消する話合いができたが、常雄がその後もなお執拗に秀子につきまとまつたため、秀子は同月三〇日から被告人方において再び被告人等と同居するに至つた経緯について、原判決の認定した前示摘示にかかる事実と大体同様の事実を認定することのできる外、なお、被告人は妻ハルとの間に、当時一五歳の子を頭に五人の子供があり又、佐々木秀子も夫常雄との間に一一歳の子を頭に四人の子供がありながら道ならぬ不倫の恋に陥ちたものであるが、常雄は秀子がすでに被告人のたねを宿して妊娠していたことでもあるので、嫉妬と憤懣の情から仲裁人の斡旋にもかかわらず絶対、家には入れないなどと言い張つて強硬な態度を示しては居たものの、秀子の所在を捜して、同女が鞍手町西川七ヶ谷の馬場久男方に預けられていることを聞知するや、馬場方に赴き、秀子に対して家に帰れと迫り、或は夜、同女を誘つて馬場方から幸袋町まで、街道を二人連れで「ほうつてはおけんので迎えに来た、家に帰れ」などと話をしながら夜明頃まで歩き続けたこともあり又前認定のように、被告人方で馬場久男等の仲裁で、秀子との婚姻関係を解消する話合いが出来て被告人から出た三千円の交付を受けたときも、金を貰う必要はないといつて拒否したが、仲裁人馬場が「これで一杯飲んで気を休めてくれ」といつて強いて渡したので、一応右三千円を受け取りはしたが、被告人方を辞去するときも、酒気を帯びていたとはいえ「柳、貴様は」などと捨ゼリフを残しても居るばかりでなく、そのとき筋向かいの仲裁人橋上長年方でまた同人と酒を飲み、再び被告人方に押しかけて行つたため、橋上にたしなめられて連れ戻されたことなどもあつて、常雄は内心秀子に対し多分に未練があつて同女を諦めることができず、被告人側の方では秀子との手切金として三千円を渡したと言うものの、常雄は秀子との婚姻関係の解消の話合いを真実諒承していたものではないこと、(二)佐々木常雄は同年七月二日夜一一時過ぎ頃酒気を帯びて原判示被告人方に到り、同家土間から三畳の間に寝て居た秀子の顔に、蚊帳をめくつて豆炭様の黒いものを投げつけて同女を起し、眼を醒ました秀子が驚いて、同じ蚊帳の中に寝て居た被告人や同人の妻ハルを起して被告人の背後に隠れたので、土間に立つたまま秀子に対し、「秀子、お前は四人の親だろうが、帰らんか」といい、さらに「秀子、帰らんとお前を殺すぞ」といいながら蚊帳をめくつて三畳の間に上りこみ、被告人の背後に居る秀子を求めて被告人と向かい合つて座つたので、被告人は「話は立派についておるじやないか、帰れ」といつて常雄と二、三問答するうち、同人からいきなり素手で顔面を殴られたので、立ち上つて常雄を足蹴にしたところ、同人は三畳から土間に転落したが、すぐ起き上り、「貴様、やつたな」と叫んで再び三畳の間に上つてきて被告人の前に中腰となり、ズボンのポケツトから所携の肉切庖丁を取り出し、これを右手に持つて矢庭に被告人の腰部めがけて突き出したが、被告人は突嗟にこれを避け常雄の右手首を握つて刃物を取り上げようとし、常雄は被告人の左腕に咬みついたので、これをみた被告人の妻ハル及び秀子はともに常雄の頭髪を掴んで後方に引張り被告人から常雄を引き離そうとしたが、常雄は咬みついたまま容易に離れず被告人も必死に斗争を続けるうち、被告人は常雄から右庖丁をもぎ取るや、即座にその庖丁で常雄の頸部附近を一回突き刺したため、同人は土間に転落し、間もなくその場で死亡するに至つたこと、及び(三)被告人方は本件当時入口の土間を中央にして左側に三畳、右側に二畳の二部屋を有する粗雑ないわゆるバラツク建であり、出入口の敷居に一条の溝はあるが、上部に溝がないので、就寝時にはただ板戸をそこに立て掛けておくだけであつて勿論施錠もなく又心張棒等も使わず、その開閉は両手で板戸を持ち上げて取り外し又嵌めこむもので、しかもその板戸は内部を覗き見の出来る程隙間の多いものであるため、所用あつて被告人方を訪れる者は通常、夜間でも、右土間までは自由に立ち入ることができる状況に在ることなどの事実を認定することができる。
以上認定の諸事実に徴すると、佐々木常雄は妻の秀子が被告人と不義密通して出奔し、被告人方において妻子ある被告人と同棲していることを知り、前掲(一)に認定したような経緯でもあつたところから、秀子に対する慕情去り難く重ねて説得すれば或は飜意して愛児四人の待つ自宅に帰る気になるかも知れないと一縷の希望を抱いて同女を連れ戻そうとの一念から被告人方に到り、同家土間に立つたまま就寝中の秀子を起して帰宅を促したところ、同女は常雄を恐れて被告人の背後に隠れたし、又三畳の間で被告人と対座した際、被告人からは話は立派についている筈だ帰れと怒鳴られて相手にされなかつたため、二、三問答するうち、これまでの憤懣一時に発してついに被告人に素手で殴りかかり被告人と斗争を開始したものであつて、いわば被告人方において秀子の身上について被告人と交渉しようとして拒否されたことから斗争を始めたものであり、被告人も亦常雄が秀子を連れ戻すために被告人方の土間に入つて来たことを熟知していたことが明らかであるから、常雄が自分の妻を説得して連れ戻すため、妻の居る被告人方の土間に入つたことは、本件の場合、未だ盗犯防止法第一条第一項第三号にいわゆる「故なく人の住居に侵入したる者」に該当しないものと解するのが相当である。
原判決はこの点につき、佐々木常雄は被告人方に入るについて被告人の承諾を得ていなかつたし、また被告人と常雄との間の本件事件前の経緯竝びに当夜常雄が肉切庖丁を携帯していた事実等に徴すれば、常雄が被告人方に入るにつき、被告人の推定的同意があつたものと認め難いので、結局常雄は不法に被告人の住居に侵入したものとみるべきであると説明しているけれども、前段認定のとおり常雄は妻の秀子を説得して同女を被告人方から連れ戻すため被告人方に到り、秀子に帰宅を促し、三畳の間では被告人と対座して被告人と交渉しようとしたこと、被告人の当公廷における供述によると、被告人は当夜、常雄が酒気を帯びずに来て居れば話合いに応ずる気持はあつたといつていること、及び常雄が当夜肉切庖丁を携帯していたにしても、それは前掲証拠によつて明らかなように以前常雄が馬場久男方で秀子に会つたときにもズボンのポケツトに刃物を入れて居たこともあつて、特に当夜に限つたことでもなく、況んや被告人と斗争を開始する迄の経緯は前認定のとおりであつて、常雄は、被告人方の土間に入るや、いきなり右庖丁を揮つて就寝中の秀子或は被告人に対し殺傷の目的を以て斬りつけるなどいわゆる寝込みを襲つたものでもないことなどを考え併わせると、常雄は当初から不法な目的を以て被告人方の土間に入つたものでないことが明らかであるから予め被告人の承諾こそ得ていなかつたにしても、推定的承諾はあつたものと推認されるので、常雄が被告人方の土間に入つたことを以て、不法に住居に侵入したものと解した原判決は失当であるという外はない。
さらにまた、前記認定のとおり、被告人が佐々木常雄に対して、「話は立派についておるじやないか、帰れ」といつたことは、被告人は勿論常雄と面識もあり、同人が当夜自宅に来た目的も熟知しておつたため、秀子の件に関しては一応既に常雄との間に別れ話も出来ているので、さらに交渉する余地は全くないから帰れという趣旨のことをいつたものと解されることや前記認定した被告人の本件加害行為の動機、態様等の事実からみると、被告人の本件行為は、佐々木常雄を故なく住居に侵入した者として、自己の住居内から排斥するためになされたものとは到底認めることができない。
してみれば、被告人の本件加害行為は、被告人が故なく被告人の住居に侵入した佐々木常雄を排斥しようとしてなされた場合に該当しないことが明らかであるから、被告人の本件加害行為が盗犯防止法第一条第一項第三号にいわゆる故なく人の住居に侵入した者を排斥せんとする場合においてなされたものと認定した原判決は、すでにこの点において、同法第一条第二項適用の前提条件たる事実の認定を誤つた違法があるものといわなければならない。
従つて、原判決が、被告人は盗犯防止法第一条第一項第三号にいう「故なく人の住居に侵入したる者を排斥せんとする」場合において、自己又は家族等の生命身体に対する現在の危険がないのに、興奮、狼狽に因り現場において犯人の常雄を殺害するに至つたものであるから、その所為は罪とならないものとして、被告人の本件所為を以て同法第一条第二項、第一項第三号に該当するものと認定したのは、結局、同法条の解釈を誤つた結果、事実を誤認するに至つたもので、その誤が原判決に影響を及ぼすことも言を俟たないので、原判決は刑訴法第三九七条第一項、第三八二条に則り破棄を免がれない。論旨は結局理由あることに帰する。
よつて、刑訴法第四〇〇条本文に従い、原判決を破棄した上、本件を原裁判所に差し戻すべきものとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 大曲壮次郎 古賀俊郎 内田八朔)